海上自衛隊佐世保資料館へ出掛けてきました。旧海軍佐世保水交社の跡地だったというこの場所。私は学生時代に、よくこの場所の隣りへ所用で来ていました。
たぶん、月に一回くらいのペースで。
30回くらいは。
知らないことの怖さ。無関心の罪。
現在は高速道路の佐世保中央インターのすぐそばです。
学生時代、そして20代から30代は意識の欠如です。ここに旧海軍、佐世保鎮守府があったこと、40代になった今、学ぶべき指導者の一人として考える米内光政氏が司令長官として勤務された施設の一つが、この地であり、それを見過ごしていました。
改めて大勢に流されることなく対米戦争へ一貫して反対した米内光政氏。そのお金の使い方と水雷艇「友鶴」の事故処理に当たる姿にも、学ぶべきことが詰まっています。
佐世保鎮守府後を振り返って考えると、30年前の文化祭頃に、吹奏楽部の演奏がそこで行われ、観に行ったような記憶があります。機会を設けて佐世保の町を改めて歩いてみたいと感じました。
ちなみに佐世保鎮守府は、建設場所を佐賀県伊万里市と比較されたようです。当時寒村だった佐世保村が土地の安さが決め手となり、その後の発展を遂げることになりますが、その場所が伊万里に決まっていたら、どんな歴史が生まれたことでしょう。
たぶん、月に一回くらいのペースで。
30回くらいは。
知らないことの怖さ。無関心の罪。
現在は高速道路の佐世保中央インターのすぐそばです。
学生時代、そして20代から30代は意識の欠如です。ここに旧海軍、佐世保鎮守府があったこと、40代になった今、学ぶべき指導者の一人として考える米内光政氏が司令長官として勤務された施設の一つが、この地であり、それを見過ごしていました。
改めて大勢に流されることなく対米戦争へ一貫して反対した米内光政氏。そのお金の使い方と水雷艇「友鶴」の事故処理に当たる姿にも、学ぶべきことが詰まっています。
佐世保鎮守府後を振り返って考えると、30年前の文化祭頃に、吹奏楽部の演奏がそこで行われ、観に行ったような記憶があります。機会を設けて佐世保の町を改めて歩いてみたいと感じました。
ちなみに佐世保鎮守府は、建設場所を佐賀県伊万里市と比較されたようです。当時寒村だった佐世保村が土地の安さが決め手となり、その後の発展を遂げることになりますが、その場所が伊万里に決まっていたら、どんな歴史が生まれたことでしょう。