十七条の憲法第2条には
「篤く三宝を敬え 三宝とは佛と法と僧となり」
とあります。

ところが、現代社会で生活していると篤く尊敬できるお坊さんと接する機会がなかなかありません。佐賀ではもちろんのこと、京都でもそんなお坊さんに巡り会える機会は限られているのではないでしょうか?

そんなことを思って過ごす私に、今回の旅は衝撃を与えました。
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標高1000m近い山の中に、日本の人口がわずか100万人の平安時代につくられた、京都のお寺で見るものよりもはるかに存在感のある仏教施設が今なお存在し、世界中の人々を魅了しているのです。

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今回の旅の宿は無量光院というお寺です。

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精進料理は、想像していたよりもしっかりと塩味が付いて美味しくいただくことが出来ました。


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9月とはいえ標高1000m近い山の朝は予想以上に冷えます。5時を過ぎると山門が開いて、町へ出ることが出来ます。列をなして出掛けるお坊さん達にすれ違います。
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何組もすれ違います。

そして、最大の衝撃は6時からのお勤めです。なんと筆頭格のお坊さんがフランス語を話すスイス人だったのです。高野山は日本の仏教文化の一つだと思っていましたが、すでに世界基準なのです。その現実に私を含めた多くの日本人が、まだ気づいていないのです。

日本文化の象徴は京都。古代都市をめぐるならヨーロッパや南米の高地だと思っていた考えが、すでに古いものになっていることを痛感しました。

読経の後の講話も、日本人顔負けのユーモアを交えて、参加者を楽しませてくださいます。お坊さんの世界ですから「日本語だけで十分」ではないのです。英語だけでは足りません。

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世界中の人々が集う場所、それが21世紀の日本なのです。
ここなら篤く尊敬できるお坊さんにも出会えます。


昨年、出雲の足立美術館に行った時、スケールの大きさ、訪れる人の多さに驚きました。
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今回の高野山も同じです。島根県と和歌山県。どちらもそれほど大きな県ではありません。しかし、人が集まる場所を考えると、どちらも「本物」を見ることが出来るのです。

周りの人たちや観光客を呼ぶためには、中途半端な公共事業でつくられた遺跡や資料館ではいけません。最低でも200年先まで人々を呼べる本物を持つ、しっかりとしたコンセプトが必要なのです。

それをつくる時に「無駄な公共事業」と呼んで計画を縮小させてはいけません。つくる以上は本物でなければ人を呼ぶことは出来ないのです。言い換えれば、目先の便利さや人々を呼ぶ仕掛けは、ほかの地域と比較されて繁栄は一瞬で終わるでしょう。
企業が投資するのならそれも有りだと考えられますが、公共施設としてつくるものが目先の便利さでは、最終的にゴミを拡散することにしかなりません。

時間を超えた魅力を放つ公共事業の企画力が求められます。