昨日は「防災の日」でした。各地で様々な訓練も実施されていたようです。
 ここで防災をテーマにしたのは防災をテクニックとして考えるためではありません。
「防災」という漢字から意味を考えてみたいのです。
 防災という漢字は「いをぐ」と書かれています。確かに、災害が発生した後、スムーズな対応が出来なければ人的被害が拡大します。しかし、素直に意味を考えれば、災害を起こさないことが防災なのです。災害を起こさないこと。

 堤防をつくることでしょうか?
 耐震住宅を作ることでしょうか?
 脱原発を進めることでしょうか?

想定外という言葉に象徴されるように、どれも間違いであることを學ぶ必要があります。

 20年前にこの世を去った司馬遼太郎氏は、子どもたちへ向けた作品「二十一世紀を生きる君たちへ」の中で
051 人間は、〜自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史のなかの人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身を慎んできた。
 その態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
 〜人間こそ、いちばんえらい存在だ。
という、思い上がった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。

と述べられています。そして、こうした考えの時代は、終わっていくにちがいないと。

 東日本大震災以降、人の心が変わりつつある一方、既製の利益を受けてきた人たちの思いを変えるには、まだ時間がかかりそうです。
 眼に見えないもの、神社をお参りする人も増えました。伊勢神宮をお参りする人の数が1000万人を超え、先人たちの行動に念いを寄せ靖国神社をお参りする人も、増えているようです。

 しかし「災害を防ぐ」ために必要なのは、身近な地域の神社を参拝し、自然に感謝し、この土地で暮らすことができることへの「感謝の祈り」をする人が増えていかなければならないのではないでしょうか?

 今から50年前。私の住む江利部落は世帯数が40戸程度の小さな集落でした。しかし、子どもたちは毎週日曜日の朝に神社に集まり、草むしり、掃き掃除、境内の拭き掃除を行っていました。夏休みをはじめ、様々な季節のお祭りごとに地域の人たちは、神社へ足を運んだものです。

 月日は流れ、4町合併により市役所が隣接した現在は、世帯数が200戸近くに増え、さらなる開発も予想されています。しかし、新しく転入された人に限らず、以前から住む人たちからも信仰心が失われ、神社の清掃はもちろん、お祭りに参加する人もわずかになってしまいました。

 宗教の自由を口実に、神社と関わらないのはこの世の価値観として認められています。しかし、地域を守護する毘沙門天をはじめ、土地の神様をお参りしないことは、自然に対する敬意を失い、共存共栄する日本の精神を否定するように感じます。
 住む場所を愛する人の割合が50%を割った今、この土地を自然災害から守る方法は、ありません。その現実と向き合う必要に迫られています。