令和元年8月28日、未明に発生した豪雨で佐賀県内は大きな被害を受けました。そのことを伝える新聞やテレビに写る画像、それは、30年前に見た記憶をそのまま思い出させるものでした。

・ 30年間、何も変わらなかったのか?
・ 30年前に比べて、ものすごい大雨だったのか?

どちらも違うはずです。確かに、今回の大雨で観測された雨量は1時間に100mmを超えています。しかし、30年前に比べて観測点が増えたこと、観測方法が進化したことにより、より細かく大雨の降った場所のデータを記録できるようになった効果だと考えるべきです。
(時間雨量での日本記録は1982年7月の長崎大水害、長崎県長与町役場に設置された雨量計で23日20時までの1時間に187mm)
 治水工事は、堤防の補強や遊水池の整備など、計画立てて進められて来ました。排水ポンプの整備により、浸水している時間は短くなりました。

 ならば、他に疑うべき要因がないかをしっかり考えるべきです。

・ 治水工事のやり方に間違いはなかったか?
・ ダム機能を果たしていた水田の役割を軽視しなかったか?
・ 諫早湾干拓事業により、有明海が小さくなったことで、奥地の筑後川・六角川の水位変化に影響を与えていないか?

 結果的に今回の大雨より、雨量が少なく被害の発生しなかった昨年7月の豪雨では、嘉瀬川堤防の決壊まで心配される深刻な事態を迎えています。一昨年は、朝倉市で大きな被害が発生しました。小さくなった有明海の影響、因果関係は分かりませんが、無視するべきではないと考えています。
 食生活の変化や米の輸入解禁により、農家の稲作離れが進み、計画性のない農地の宅地転用は、天然のダムを奪い、計画された治水能力では限界を迎えたのではないでしょうか?


平成2年7月2日月曜日
久保田駅007 5年間の皆勤賞がかかる私は、雨による電車の遅れを心配して、父に自動車で肥前山口駅まで送ってもらいました。
 ところが、6時21分発佐世保行電車は、定刻になっても出発できません。車内で待ちながら外を見ていると雨は時間とともに強くなります。これまでに体験したことのない大雨でした。
 1時間ほどたったでしょうか。車内放送で高橋駅付近の線路が冠水し、運転を取りやめることが伝えられます。
 携帯電話などない時代です。駅まで送ってきた父は、すでに帰り着いた頃で上りの電車を待つしか有りません。しかし、事態は深刻化します。7時19分着、佐賀方面からの電車は到着したものの、佐賀方面への電車は、牛津川決壊により運転することができなくなっていました。
 公衆電話には、長い列ができています。その時、ホームで待っていたか待合室にいたのかは記憶がありません。ただ、特急「あかつき」が停車する3番線ホームの脇から、公衆電話で自宅へ連絡したことを覚えています。雨の音とディーゼルエンジンの音、家族が何を伝えたかったのかは帰り着いてから知りました。
線路は高いので、そこを歩いて帰ってこい

 10時を過ぎた頃でしょうか。雨が上がったので歩いて帰ることに。駅前の国道から牛津町に入ると目の前の道路が冠水しています。とりあえず山辺に近い高いところを選んで。しかし、牛津町上砥川宿にさしかかったとき、道路が川になっている状態に太刀打ちできませんでした。
 だんだんと深くなる水位。多久市納所方面(牛津川上流)から県道を流れてくる濁流。水深が胸まで来たときに、県道から下流の国道へ流され身体をの自由を奪われる経験をしました。(水害で命を落とす人はこうなるのか)

 うまく身体を回転させ、幸い近くに停車していた軽トラックの荷台で、2時間ほど休ませてもらうことができました。水深が腰くらいまで下がった頃に、川と化している県道を歩いて渡り、さらに牛津大橋を越えたところからはお巡りさんとボートを漕いで牛津町役場まで進むことができました。
 ずぶ濡れで帰宅した私を見た家族は、どんな思いだったでしょう?


 佐賀平野は有明海を埋め立て、稲作を中心とする農業で発展したところです。ある意味、大雨被害と共存してきたところでもあります。有明海の潮の満ち引きが大きいため、満潮で被害が拡大する一方、この30年で排水施設が充実し、一度潮が引けば復旧作業もスムーズになったと感じました。
 今回水没した地域、佐賀駅周辺は3〜4年に一度、規模の大小に違いはありますが冠水していますし、小城市牛津町や武雄市の高橋駅付近、北方町周辺も10年1度くらい浸水するところです。地元になじみのない方にとっては、よりつらい経験になられているでしょう。また行政職員も広域採用されていますので、地形すら分からずに対応を苦慮されているかと思います。

 一方、小城市三日月町は比較的水害に強いところです。農作物への影響は少なからずあると思いますが、住環境への影響はほとんどないと思われます。
 しかし、慢心してはいけません。米離れが進み、水田を住宅地に変える政策。貴重な天然のダムを失い続けています。今回の水害で、30年間の土木工事が無力化するような被害をもたらしたのは、被災地区やその上流で水田の埋め立てが進んだことを切り離して考えることはできないはずです。
 来るか来ないか分からない50年に1度の水害に耐えられる街づくりが必要です。浸水した水を早く排水する設備ではなく、浸水しない街づくりの計画が必要なのです。

 今、議論が始まった長崎新幹線、武雄温泉〜新鳥栖のルートが、現行ルートでは駄目だという主張を、改めて考えて欲しいと感じます。