飯盛良隆のi佐賀iよ〜したか

住まいづくりのコンシェルジュから転身 佐賀県知事に挑戦した飯盛良隆のブログです。

準完全無農薬・無化学肥料のお米「Shin-和」
平成28年産は完売しました。平成29年産の受付は8月を予定しています。

ラジオ体操会を開催します。
6月7日(水)〜10月4日(水)の月曜・水曜日(8月14日はお休みです)
時間は 6:25〜6:45  会場は、主に小城市三日月町樋口地区
 「6月 26日は震和会事務所前 小城市三日月町樋口803」です。

元氣と景氣と大気を探求する震和塾を開催します。
6月12日(月)〜10月2日(月)の月曜日
ただし、7月17日、7月31日、8月14日はお休みです。
時間は
 13:20〜14:50(人を読み、時代を読み、天意を読む)
 15:20〜16:50(人類の至宝インド哲學、眞理學入門)
 19:20〜20:50(ボーダレスな社会・定員5名)
会場は小城市三日月町樋口803 震和会事務所
参加費は1回 1,000円相当 (但し後援会会員は2回まで無料)
震和塾参加申込みはこちらから
お名前と当日連絡の取れる連絡先をご記入の上、送信してください。

震和会とは。(為雷)人生の試練や困難を切り拓き、奮いたつ勇気をもって、
(日本)の国を再興する、という意味です。

米内光政

自衛隊佐世保資料館を訪ねて

002 海上自衛隊佐世保資料館へ出掛けてきました。旧海軍佐世保水交社の跡地だったというこの場所。私は学生時代に、よくこの場所の隣りへ所用で来ていました。
 たぶん、月に一回くらいのペースで。
 30回くらいは。
 知らないことの怖さ。無関心の罪。


001 現在は高速道路の佐世保中央インターのすぐそばです。
学生時代、そして20代から30代は意識の欠如です。ここに旧海軍、佐世保鎮守府があったこと、40代になった今、学ぶべき指導者の一人として考える米内光政氏が司令長官として勤務された施設の一つが、この地であり、それを見過ごしていました。
 改めて大勢に流されることなく対米戦争へ一貫して反対した米内光政氏。そのお金の使い方と水雷艇「友鶴」の事故処理に当たる姿にも、学ぶべきことが詰まっています。
 
007 佐世保鎮守府後を振り返って考えると、30年前の文化祭頃に、吹奏楽部の演奏がそこで行われ、観に行ったような記憶があります。機会を設けて佐世保の町を改めて歩いてみたいと感じました。
 ちなみに佐世保鎮守府は、建設場所を佐賀県伊万里市と比較されたようです。当時寒村だった佐世保村が土地の安さが決め手となり、その後の発展を遂げることになりますが、その場所が伊万里に決まっていたら、どんな歴史が生まれたことでしょう。

青春18きっぷで日光まで往復

077 昨日は朝早く浅草橋を出発して、日光へ出掛けてきました。日光へ足を運ぶのはたぶん3回目。いつもは東武鉄道を使っていたので、初めてJR線経由で足を踏み入れました。もちろん「青春18きっぷ」ということで。

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 東照宮にはまだ雪が残っています。


031 ここ東照宮は、私が政治姿勢の礎としている米内光政氏が、内閣総理大臣を辞職した翌月に訪れて、次の歌を詠んだとされています。

見るもよし 聞くもまたよし 世の中は
 いはぬが花と 猿はいうなり

寝たふりを  しても動くや 猫の耳

 三国同盟へと社会が流れそれを阻止しようとした当時と、情報によって左傾化された日本とそれを危惧する人々の対峙。
 国を代表する総理を辞職して間もない米内氏と知事を目指して選挙を戦い敗れた私。

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 立場は大きく違っても、思いは同じ「日本の将来を危惧していること」でしょう。

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「みざる きかざる いわざる」 を見て歌を詠んだ米内氏と、そこへは足を運ばず、
輪王寺で般若心経を唱えた私。

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 迎えてくれた空の色はどちらも同じだったのでしょうか?

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 ちなみにここは、スカイツリーと同じ高さの標高にあるそうです。

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 滞在時間90分、日光を慌ただしく後にして宇都宮へ戻り「餃子丼」なるものをいただきました。650円です。



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 夕方の授業を前に烏山線へ。ハイブリッドディーゼル列車を見たくて計画したのですが、残念ながらそのエンジン音を楽しむことは出来ませんでした。
 しかし、行き違いの駅でその車両が入った時の静かさにはちょっと驚きました。現在、ここと小海線を走っていますので、機会を設けて乗車したいと考えています。

山本五十六と靖国遊就館を訪ねる

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都心の暑さから離れたくて群馬県の水上温泉に宿を取りました。

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川の流れをホテルの窓から眺めることの出来るお部屋は、窓を開けると天然クーラーです。ただし、水の音は騒がしいので夜中に何度か目を覚ましました。

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前日は越後湯沢駅でお酒の飲み比べを行った後、長岡へ向かい山本五十六の記念館を訪ねてきました。

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先の対米戦争で連合艦隊司令長官の職にあった山本五十六ですが、開戦前は米内光政、井上成美とともに海軍左派として日独伊三国同盟にも断固反対していたと言われています。

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3月に米内光政の生地を訪ねに盛岡へ向かった際に、長岡の友人と会うために宿泊したのがここ、長岡の三幸旅館。

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その旅館から100mほどしか離れていなかったにもかかわらず、当時は関心がなく訪れなかった山本五十六の生家。

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この数ヶ月の間に理解を深めた視点で、山本五十六のことを感じることが出来ました。

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資料館があるところの地名が「坂の上」。
岩手を訪れた時にも、米内の住まい近く八幡神社当たりを「坂の上」と呼んだようです。
坂の上の雲に登場する「坂の上町」は確か愛媛県。

当時は全国的にこの地名が付けられたのでしょうか?


さて、この日は東京へ戻り靖国神社の遊就館を訪ねました。
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日本の様々な戦争を学ぶことが出来ると聞いていたのですが、壬申の乱についての資料を見ることが出来なかったのが心残りです。
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展示された様々な資料を見ながら、多くの皆さんが一つの資料館や考え方から先の大戦を学ぶのではなく、日本各地、様々な場所にある先人を偲ぶ資料館へ足を運び、それぞれの価値観で戦争を振り返ることが重要だと感じています。
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米内光政氏の生地を訪ねて

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盛岡市へ来ました。
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第37代内閣総理大臣で最後の海軍大臣でもある盛岡市先人記念館を訪ねています。

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米内氏は戦後、玉音放送の全文を繰り返し模写したそうです。
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奥にかけられた「親和」の書。米内光政氏は私も学生時代に過ごした佐世保市に本店を持つ親和銀行の名付け親なのです。本物は親和銀行本店にかけられているとか。
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お話は前後してしまいますが、先人記念館は9時開館ですので、ホテルで朝食を済ませた後に、まずは盛岡八幡宮にある米内光政像を訪ねます。

八幡神社へ続く通りには
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米内が少年期を過ごした自宅がこちらにあったそうです。
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八幡神社の境内へ
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参道より、一つ右側の裏手にあった米内光政氏の像
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八幡宮から歩くこと15分ほど
米内氏のお墓がある円光寺へ
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第二次大戦中から日本の未来と国体維持を考え、終戦後の日本発展に思いをはせた米内氏へ、現代日本の危機を救うべく力を注ぐことを誓ってまいりました。

さて、盛岡駅前の「東や」でわんこそばに挑戦。
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112杯を食べて盛岡を後にしました。
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海軍大臣・米内光政大将に学ぶ

米内光政

37代内閣総理大臣(1940年1月16日〜同年7月22日)であり、最後の海軍大臣でもある米内光政氏。しかし、教科書で習うことのない同氏を知ったのはちょうど1年ほど前。
ある本を手にしたことで、私の祖母の弟がこの米内大臣の下で働いていたことを知ったのです。

無口だといわれる米内氏が、なぜ内閣総理大臣まで上り詰めたのか?
そこに興味があり、同氏が三碧木星であることから学ぶべきものがあると考え、
ただ今この本を手にしているのです。

とはいえ、厚くて文字がちっちゃいこの本。読み終わるのはいつになるでしょうか・・・。
頑張らねば。

一つ気になる記述が。満州事変後間もない頃に、同期の荒城二郎中将に送った書簡に
「大和民族は他を同化する先天的素質を持ってゐるということは、・・耳にもし自分も時々考えてみることであるが、事実は果たして如何か。東西両様の文明を統一融合して世界の平和を指導するのは、大和民族の使命であると威張るその意気は、至極結構だが、地上から足を浮かして雲をつかむやうなウヌボレと空元気では将来が思ひやられる」

80年前も今と同じようなことを考え、そのことを冷静にみる指導者とは。


大将にはそれ相応の識見を持っていなければならない。
人格でなる役ではない。

平穏な世に平穏なつき合いをしている分には、教養豊かで魅力に富んだ武将であっても、国の安危がかかってくるクリティカルな場面に、はっきりした見通しが持てず、横から下からの突き上げに合うとすぐ腰くだけになってしまうような和協円満の八方美人、支那学の素養だけの人格大将がいてくれては困る。

真の識見を持った大将とは明治期の山本権兵衛、大正の加藤友三郎、昭和の米内光政。(井上成美評)


戦いはしない方がいい、・・・。国の存立のためには立つ。国滅びるというのなら、国が独立を脅かされているときには、とにかく立つ。そのためには軍備というものが必要だ。国の生存を脅かされ、独立を脅かされた場合には立つ。その代わりに、見方をつくっておかなけりゃいけない。自分じゃ勝てない。正々道々の主張をするならば見方ができる、・・・。弱い国家を侵略してそれを征服して自分のものにしようとする者は、必ずほかの国の批判にあって、みそかの晩の金勘定の清算をさせられる時期が来る、と思う。軍備というものはいらないじゃないか、戦しないのなら___そういう意味じゃないですね。

今の日本、憲法9条の議論と絡めて一人ひとりが向き合う必要があると考えます。


ものの本にどうあろうと、力すなわち正義ではない。
日本の海軍は常時強い力を蓄えて正義の後ろ盾となるべきものであるけれども、此の力が正義そのものだと思ってはならない


人の使い方
人にはそれぞれの能力があるからね。物差しでいうと横幅が広いものもあるし、縦に長いものもある。物差しの具合をよく見て、その限度内で働いている間は、僕はほったらかしにしとくよ。ただ、能力の限界を超えて何かしそうになったら、気をつけてやらなくちゃいかん。その注意をしそこなって部下が間違いを起こした場合は、注意を怠った方が悪いんだから、こちらで責任を取らなくちゃあね。
飯盛良隆


佐賀県小城市三日月町出身。
佐世保工業高等専門学校卒業後、ブリヂストン鳥栖工場設備課勤務。橋本龍太郎通産大臣の時代に第3種電気主任技術者の免状を取得。

建材店:サンコー商事にて14年間建材の販売に携わり新築・リフォームの現場に数多く潜入。戸建て住宅でもインテリアの重要性を感じ平成20年町田ひろ子インテリアコーディネーターアカデミー福岡校に入学しインテリアの基礎を学ぶ。

平成22年、スメトコプロモーションを設立し住宅CMサービス佐賀の運営を始める。
平成25年2月、ダブルスネットワーク(株)社との契約を解消、住宅CMサービス佐賀の運営を終了する。

平成24年3月、帝王学・氣學を学び始める。同年6月
唐津から釜山へ新幹線で!
実現するためには長崎県と佐賀県をひとつに。そしてアジアや世界中の人たちが、自然と人の美しさを求めて足を運ぶ地域にする。
そんな夢を描き知事を目指して政治活動をはじめることに。 活動に専念するために平成26年6月末にて住宅に関する事業は終了。平成26年8月末にて(株)スメトコプロモーションを退社。
平成27年1月11日実施の佐賀県知事選挙に立候補。惨敗。

現在
眞理學指導員 (日産鮎川義塾)
夏・佐賀で稲作
冬・東京エムケイ(株) 勤務
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